浅井甚兵衛

顕正会は、旧名を妙信講といい、もともとは日蓮正宗の末寺に所属する法華講支部の一つでしたが、昭和49年(1974年)に日蓮正宗から破門され、以後在家教団として勢力を伸ばしてきた異流義集団(ニセ仏教教団)です。

前身である「妙信講」の初代講頭は浅井甚兵衛(1904-1984)といいます。
これが浅井昭衛の父親です。

明治37年に愛知県西尾の農家に生まれた浅井甚兵衛は、19歳で上京し、大正3年、22歳の時に法華講員から折伏されて、妙光寺(東京都品川区)にて日蓮正宗に入信しました。

そのリーダーシップを買われて総代の地位まで登った甚兵衛でしたが、高慢で自分勝手な性格だった甚兵衛は、妙光寺を意のままに動かそうとして反発を受け、明光寺を飛び出してしまいます。
そののち甚兵衛は、東京都豊島区の豊島教会(現・妙国寺)に出入りするようになります。

戦中、ふたたび妙光寺へ戻った甚兵衛は、数人の仲間とともに昭和17年、「東京妙信講」を結成し、第62世日恭上人の認可を受けたとされています。

ところが戦後になって、甚兵衛一派は勝手に妙光寺を飛び出し、豊島区の法道院に所属を変えてしまいます。

そんなわがままを受け入れてくれた法道院主管にもやがて反発して、法道院を離脱した上、勝手な布教活動を始めてしまいます。
昭和32年8月、甚兵衛は勝手に講頭を名乗り、息子の昭衛を青年部長に任命しています。

寺院に所属しない講では、そこにどれほどたくさんの人を招き入れたとしても、その人たちは御本尊を拝むこともできず、まともな信心ができません。
この事態を憂慮し、信心をやる気があるのならと大慈悲を示した第65世日淳上人は、墨田区の妙縁寺に妙信講を正式に所属させます。

浅井甚兵衛らは日蓮正宗の信徒であった間も、その師弟の筋目を貫くことができず、気に入らないことがあると寺院を飛び出すことを繰り返してきました。
こうした自分本位の信仰姿勢が、必然的に後の異流義化をもたらした原因であると言えるでしょう。

「正本堂」に反発~脅迫状送付と学会本部襲撃事件

昭和37年に「法華講連合会」が発足しますが、妙信講はこれへの加入を拒絶し、そのために、

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