「未開眼本尊」は魔の住む本尊

顕正会のニセ本尊。顕正会の自宅拠点にあったニセ本尊(左)と本物の御本尊(右)。本物は昭和20年代の古い御本尊であるためやや黄ばみが生じている。一方、顕正会本尊は同じ時期のものであるはずなのに真新しい感じを受ける。ニセ本尊とは言え姿がそっくりなので、明瞭な画像を公開することは避けるが、全く同じ筆致なのに大きさだけ異なるのは、本物をコピーしたからにほかならない。 本尊をしかるべき人が扱わないときどんなことが起きるのかについて、日蓮大聖人は『木絵二像開眼之事』に次のようにおっしゃっています。

法華を心得たる人・木絵二像を開眼供養せざれば家に主のなきに盗人(ぬすびと)が入り人の死するに其の身に鬼神入るが如し、今真言を以て日本の仏を供養すれば鬼入つて人の命をうばふ鬼をば奪命者(だつみょうしゃ)といふ魔入つて功徳をうばふ魔をば奪功徳者(だつくどくしゃ)といふ、鬼をあがむるゆへに今生には国をほろぼす魔をたと(尊)むゆへに後生には無間獄に堕す」。

本尊(本尊様の作成物)には目に見えない”部屋”があって、初めにそこは「空き部屋」になっています(※)。

※ 「空き部屋」の譬えは話を分かりやすくするためのそれであり、御金言ではありません。

その空き部屋へ仏様の魂を呼び込む行為を「開眼供養」と大聖人はお示しですが、この開眼供養について一切の詳説は見ることができません。
すなわち「秘義」であるわけです。

御書にも明かされていない秘義を浅井昭衛が知る由も無いわけですから、浅井の作った本尊には「開眼供養」がなされていないことに論を待ちません。

さて、浅井は自分の作った本尊を開眼できないでいますから、「空き部屋」に仏様は入っては来ません。
大聖人は、仏様の代わりに「魔」や「鬼」が入り込んでしまうとご明示されています。

世にもつたなき「ニセ本尊」がその”完成”を見るときです。

そして、そのニセ本尊を拝むと、人は不幸となり国は亡んでしまうとの仰せです。

浅井は一つ覚えのように「顕正会に背けば国が亡ぶ」と喚いていますが、自分が大聖人からそっくり同じお叱りを受けてしまった姿なのです。

ニセ仏法は堕地獄、ニセ本尊も堕地獄、これは私の意見ではありません。
日蓮大聖人の御指南なのであります。

なお、上掲の御文には、当時の真言宗の絵曼荼羅を破折しておいでですが、これを取って「創価学会ではなく真言宗への破折だ」と言った愚かな学会員があります。
そこで、現顕正会員へは、以下の反駁例文を贈ります。
「顕正会ではなく創価学会への破折だ」。

顕正会員は、「法華を心得たる人とは、まさしく浅井先生のことだ」とでも嘯くつもりなのかもしれません。
この御文を得てかえって勢いづいてでも見せるでしょうか。
創価学会でも同様に、池田大作こそ「法華を心得たる人」だと主張するのですが、同程度のつたなきニセ仏教と言うほかありません。

法華を心得たる人とは、日蓮大聖人のことに決まっているのです。
いずれの馬の骨ともつかない浅井昭衛を大聖人と比肩させるは、まさに”仏様を人間視して軽んずる”意識の現れでしょう。
顕正会とはそういう集団なのです。

「魔の通力」に騙される人々

顕正会のニセ本尊を拝めば不幸になるとは、これは御金言なのですから逃れようもありません。
顕正会の各会館にはもちろんのこと、自宅拠点にもニセ本尊があり、これらを拝めば不幸になるとは大聖人のお示しなのですから、果たしてそういう現証が顕れるのです。

ところが、顕正会員は、「顕正会の勤行をすると生命力を頂ける(ニセ本尊から生命力をもらえる)」と嘯いています。

そんなことはないと否定的な会員も実は少なくないのですが、ではなぜこのようなこと、すなわち「ニセ本尊に功徳がある」かのような体験談が実在するのでしょうか。

「生命力」なんてもらえているという実感は実は無く、見栄を張ってそう言っているだけの徒輩も少なくないとは私の見立てではありますが、単なる思い込みにすぎないにせよ、生命力が高まったと真実実感する者もあるように思えるのです。

通力をもて智者愚者をばしるべからざるか。唯仏の遺言の如く、一向に権経を弘めて実経をつゐに弘めざる人師は、権経に宿習(しゅくじゅう)ありて実経に入らざらん者は、或は魔にたぼらかされて通を現ずるか。但し法門をもて邪正をたゞすべし。利根と通力とにはよるべからず(唱法華題目抄)」。

上掲には、「魔は誑かしの通力で人々を迷わせることがある」とお示しになっています。
当時、念仏、真言などの悪師が、謗法の果報すなわち現罰を顕さず、むしろ利根(小賢しい世俗的な知恵)や通力(不思議な神通力のようなもの)を操って人々の歓心を買い、栄えていました。
この状況について大聖人は、「魔が邪を正と取り違えさせるために邪師を栄えさせている」というご説明をなさったわけです。

考えてみれば当然のことで、謗法を働いて即座に現罰が出てしまったら、皆がすぐに正師正法へなびいてしまいますから、そうはさせじと魔が通を現じて騙すというわけです。

顕正会にいわゆる「功徳の実証」とはまさにこれであり、「ニセ本尊から生命力をもらえる」も同様に、魔の通力による誑かしの現象なのであります。

「文証」が最も重要

上掲の『唱法華題目抄』の御文には、「魔の通力」に騙されない”防御策”が明示されていることは重要です。

のたまわく、「但し法門をもて邪正をただすべし」。

法門とは御文のこと、御金言のことであり、仏様の書いた言葉ということです。
御金言すなわち「御書」を持たせない浅井のやり方は、この有効にして唯一の防御策を取らせない、魔の策略と断じることができます

顕正会のニセ本尊は「法華を心得たる人」による「開眼供養」を施していないから「魔や鬼の住む本尊(ニセ本尊)」であり、それを拝めば「命と功徳を奪われ不幸となる」ことは、御金言に明々白々なのであります

本尊とは仏様その御方でありますから、勝手に自作するなどもってのほか。
顕正会よ反論せよ!!

本尊画像の解説

このページの上部に掲げた本尊の画像について少し説明します。
ニセモノとは言え本物そっくりなので、作法に従い文字をあえて不明瞭にしました。
顕正会のニセ本尊。 右は日蓮正宗の寺院が所蔵する本物です。
現行の家庭用御本尊と比べるとやや細身で、特に横幅が狭いのが特徴です。

これはその昔、総本山第二十六世日寛上人がお作りになった御形木(版木)を使って、ある程度多量に印刷されたもののうちの一体です。
これは昭和20年代に家庭もしくは単身者へ下付されていた御本尊で、今では少し黄ばみが見えたりしています。

一方、顕正会製のニセ本尊は、大きさが現行の家庭用本尊のそれに合わせてあります。

このニセモノは、一人の顕正会員が自宅に所蔵していたものを借り受けて撮影したものです。
この人は、自宅アパートを顕正会の自宅拠点として提供していたため、このニセ本尊を皆で拝んでいたわけです。

このニセ本尊は、浅井か誰かが持っていた本物をいったんスキャンして画像とし、その画像を紙に印刷して作ったものと推定されますが、スキャンした画像をそのまま使えばよいものを、なぜか拡大してしまったわけです。

約15%拡大してあるという説もありますが、実は縦横比は本物と異なっており、横幅をより拡大してあります。

ところが、大きさの異なる御形木御本尊をつくるためには、別の御形木が無ければそれはできません。

このニセ本尊が御形木から作られていないことは明白です。
なんとなれば、筆致が全く同じだからです。

肉筆であるのですから、同じ人が2度同じ文字を書けば、筆致は異なってきます。
にもかかわらず、このニセ本尊は、本物と筆致が全く一緒、つまりコピーしたとしか考えられないのです。

顕正会員はこんなものを拝まされているのです。
もちろん、会館にある本尊もほとんど全部がニセモノで、日蓮正宗へ返却しなかった日布上人の常住御本尊が本部会館にあると言われはしますが、だから良いということにもなりません。

このページの先頭へ