血脈否定は日蓮大聖人の否定

日蓮大聖人の宗旨に言う「血脈(けちみゃく)」とは、ひとつには「本門戒壇の大御本尊(三大秘法の御本尊)」であり、これを「信心の血脈」と言い、また「総付嘱の血脈」ともとなえます。
「一閻浮提総与の御本尊」とはこのことを表しています。

いまひとつには、『身延相承書』に「血脈の次第 日蓮日興」と拝する「法体の血脈」のことであり、代々の御法主上人が受け継いでいる「唯授一人の血脈」のことであります。
これを「別付嘱の血脈」ととなえるのです。

単に「血脈」と言うときは、ふつう、後者の「唯授一人の血脈」のことを指しますが、顕正会浅井昭衛は、これがどうにも気に入りません。

いわく、「66代法主は急逝したから血脈は切れた(血脈相承失敗)」と。

この妄説は創価学会の受け売りであり、もとはと言えば正信会が保身のために使った苦し紛れの謬説ですから、浅井昭衛の「血脈断絶論」は”三番煎じ”の戯論にすぎません。

切れた切れたと大騒ぎするということは、やっぱり、本来は切れてはならない大切なものと言っているにほかなりません

浅井よ、そんな大事なものを勝手に切っちゃって、あとの話を続けることできるのかいと、こちらが心配になります。

血脈について要約すると、
1. 信心の血脈:大御本尊=総付嘱すなわち万人へ授けられた日蓮大聖人のお体
2. 法体の血脈:唯授一人の血脈=別付嘱すなわち御法主ただ御一人へ授けられた日蓮大聖人の御魂

いかがでしょうか。
「魂」は人の体に宿るものであり、一人の魂は一人の体に宿るものですから、「唯授一人」はきわめて合理的で妥当です。
そしてそれは、「二人」や「六人」などの複数であることはあり得ませんし、0人ということでは意味がありません。

血脈断絶すなわち「0人」を主張する浅井昭衛は、日蓮大聖人を「正法弘通の”失敗者”」と蔑み、末法万年にわたるべき人類の救済は失敗に終わったと主張していることになってしまっているわけです。

にもかかわらず、総付嘱の血脈たる「大御本尊」にのみしがみつき、「唯一正法を伝える団体」など嘯く姿は、笑止とも哀れとも言えると同時に、その振る舞いは、全人類と仏様に対する大反逆罪と言えるでしょう。

迷妄の原因は”仏と人間の区別ができない”つたない頭脳

日蓮大聖人は、御本仏のお悟り(御内証)を「血脈」ととなえ、これを第二祖日興上人ただ御一人へ「相承」なさいます。

就中六人の遺弟を定むる表事は、先々に沙汰するが如し云云但し直授結要付嘱は唯一人なり白蓮阿闍梨日興を以て総貫首と為し、日蓮が正義悉く以て毛頭程も之を残さず、悉く付嘱せしめ畢んぬ上首已下並びに末弟等異論無く尽未來際に至るまで、予が存日の如く、日興が嫡々付法の上人を以て総貫首と仰ぐべき者なり(百六箇抄)」。

上に掲げた御金言におけるいちばん重要な点は、「日蓮日興」の血脈は終わりなく続くというお示しです。

そして、「誰もこれに異論を唱えてはならない」と念まで押されているのです。

それを勝手に「切れた」と喧伝するとは何事でしょうか。
すくなくとも日蓮大聖人の仏法を伝える者の発言ではありません。

日蓮在御判と嫡々代々と書くべしとの給ふ事如何、師の曰く深秘なり代々の聖人悉く日蓮なりと申す意なり(御本尊七箇相承)」。

著名な『七箇相承』には、もっと端的にお示しです。
要するに、代々の上人様はその御内証において日蓮大聖人その御方であり、同時に、外形的にはいち凡夫であるということなのであります。

この「御内証において日蓮大聖人である」ということは、端的に言えば「日蓮大聖人の御魂がその御身に宿っている」ということになります。

さらに言えば、「血脈相承」なる甚深の御法門とは、例せばいち企業の社長の交代であるとか、一国の元首の交代であるとか、そういう人間的政治的なもの、すなわち人間のすることではないのであって、日蓮大聖人御自らのなさることであると言えるでしょう。

それが「切れた」とか「失敗した」とか言うとしたら、そもそも日蓮大聖人にすがって幸せになろうなんて思うべきではありません。
なんとなれば、日蓮大聖人なんて呼んでいたとしても、その人はただの凡人であって、全人類を救済する力なんて持っているとは思えませんから。

ただここで気づくことが一つあります。
日蓮大聖人を”凡人化”して溜飲を下げる愚か者たちは、浅井昭衛のような俗物を大師匠と仰いで満足なのであろうなということです。

「血脈断絶論」は、日蓮大聖人を信ずる者としては自らの首を絞める思想であり、「大聖人」を連呼しながら地獄への道をたどる姿なのであります。

「師弟子」の義を知らず「僧」を軽侮する愚

御宗旨における三宝とは、日蓮大聖人、大御本尊、日興上人であり、おのおの仏宝、法宝、僧宝と定めます。

三宝一体の義からすれば、血脈を受け継ぐ代々の上人様も三宝と一体であることが分かります。

つまり、日興上人から続く「唯授一人の血脈」に繋がらなければ、成仏はできません。

「繋がる」とは、具体的には「師弟関係を結ぶ」ということであり、それなくして何万回ナムナムと唱えようとも、成仏は叶わないのです。

もしそれでも叶うと言うならば、浅井も顕正会も必要ないのであって、めいめいが勝手にナムナム言っていればそれでよいことになってしまい、せめて「大御本尊の方角を向いてナムナム言っていれば成仏します」がよいところでしょう。
しかしもちろんそんなことはありません。

法華経の大海の智慧の水を受けたる根源の師を忘れて、余(よそ)へ心をうつさば必ず輪廻生死のわざはひなるべし。但し師なりとも誤りある者をば捨つべし(曾谷殿御返事)」。

御かうしやう(講衆)、じこんいご(自今以後)において、へんぱ(偏頗)ありてしやう(聖)人のほうもん(法門)にぎず(疵)つけ給候な(莫)。なおなおこのほうもん(法門)は、しでし(師弟子)をただ(糾)してほとけ(仏)になり候。しでし(師弟子)だにもちが(違)ひ候へば、おなじ(同)ほくゑ(法華)をたもち(持)まいらせて候へども、無間地獄にお(堕)ち候也。うちこしうちこ(打ち越し打ち越)しぢき(直)の御でし(弟子)と申すやから(輩)が、しやう(聖)人の御ときも候しあひだ、ほんでし(本弟子)六人をさだめ(定)おかれて候。そのでし(弟子)のきうけ(教化)のでし(弟子)は、それを、そのでし(弟子)なりとい(言)はせんずるためにて候。あん(案)のごとくしよう(聖)人の御のち(後)も、すゑ(末)のでし(弟子)ども(共)が、たれ(誰)はしよう(聖)人のぢき(直)の御でし(弟子)と申すやから(輩)、おほく候。これら(此等)の人はだいはうぼう(大謗法)にて候也。御かうしうら(講衆等)このむね(旨)をよくよくぞんぢ(存知)せらるべし。恐々謹言(佐渡国法華講衆御返事)」。

「師弟」にかかる御法門ははなはだ簡明です。

1. 日興上人以後嫡々代々の御法主上人が「根源の師」
2. 根源の師に「本弟子(手継の師)」が連なるけれども、手継の師は大聖人の直弟子とは言えない
3. 根源の師以外の師においては、御法門に違う師を捨てるべきである

代々の上人-御僧侶-在家信徒
(※青太字に当たる人は謗法を犯す可能性がある)

顕正会という迷妄の集団は、ここに言う「根源の師(歴代上人)」と「手継の師(五老僧などの一般僧侶)」との区別が、これまたできません。

そもそも、正しい教義を教わったことがないことがその原因ではありますが、本物の師について本物の御本尊を拝んでいないから、ただでさえ弱い頭とひがんだ命とのゆえに、いずれにせよ僧侶を好きになれないのでしょう。

浅井昭衛という、大聖人とは何のつながりも持てない、僧侶ですらないいち俗世間人を「師匠」と呼んでいるうちは、日蓮大聖人の尊い正法に順縁を結ぶことはできないでしょう。

しかし、解るか解らないか、信じるか信じないかによらず、御法門に背けば「堕地獄」「大謗法」となるは避けがたいことです。

上掲の御文に依って案ずるに、顕正会を辞めると堕地獄なのではなく、顕正会にいると堕地獄は必定と結論せざるを得ないのです。

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